ゆずはら置き場/パノラマ観光公社

作家・ゆずはらとしゆきのお仕事報告ブログです。

過去の原稿をwebに再録してみた件(1月)

橋本治さん逝去の報を聞いて、そういえばユリイカ』の橋本治特集号にエッセイを書いていたなー、と思って、放置していたnoteに再録してみたのです。

note.mu

 で、再録してから改めて読み返したんですが、9年前のエッセイというのは、けっこう信用ならないというか、現在の思考とはかなり違うんだなー、と気づきました。
なので、再録のほうにも改めて付記を加えましたが、ついでなので、こっちでも少し書いておきます。

まー、『ハイスクール八犬伝にまつわる80年代末の回想は私的な話ですので、特に問題はないんですけど、それを2010年時点の状況へ繋げていくところで、まずい部分が多々あるというか。

90~00年代のジャンル過渡期に二分論があったのは確かなんだけど、そこで例示している作品の評価が、2019年の目から見るとかなり間違っているんですよ。
当時、見聞きしていたものから挙げているのは間違いないんだけど、どう見ても変なバイアスがかかっている。

普段、自作を読み返すのはフィクションとして書いている小説ばかりなので、まったく気づかなかったんですね。
特に『空想東京百景』シリーズは、独特な様式を2002年のスタート時点で作り上げてしまったので、私的な部分があんまりないというか。

空想東京百景 (講談社BOX)
 
咎人の星 (ハヤカワ文庫JA)

咎人の星 (ハヤカワ文庫JA)

 

逆に『咎人の星』はわりあいに私的な部分が多くて、このエッセイで扱っていた主題も入っているんですが、そのせいか、還暦過ぎたSFファンダムの牢名主おじいちゃんたちから叩かれるという珍妙なことが起きたりしておりました。老人たちの回春を妨げた咎人として。

ジャンル小説というかキャラクター小説は、あんまり私的な部分を書いてはいかんというか、「見たいものを書いて、見たくないものは書かない」ことで成立しているものなので、見たくないものをわざわざ書くのは無駄な努力でしかないのです。
このエッセイを書いた2010年は、00年代の過渡期に無駄な努力を面白がっていたひとたちが次々と転向した頃で、2013年に『咎人の星』を書いたときには、もう誰もいなかった。
二分論というか、00年代の二項対立は消滅して、元の言語空間へ収斂されたわけです。

なので、以降のぼくは『空想東京百景』シリーズの様式へ閉じていくことにしたわけです。それ以外は100%徒労でしかないからです。
版元も編集者も読者も、小説なんて株券としか思っていないんだから、仕手株みたいな作品を書いてもしょうがないし、なんで苦労して書いて貶されなければならないのか、まったく馬鹿馬鹿しいことだ、と思い至ったのです。

ようは、ぼくも転向したのでしょうけど、誰もいない場所に居座っていても、ひたすらと退屈なだけなので、そういう作品が読みたければ、古本屋で昔の中間小説でも漁ればいいんじゃないの、というのが正直なところです。

あと、カクヨムではたまに私的な習作を書いておりますが。

kakuyomu.jp

ただ、noteもカクヨムも、私的な小説を公開するにはあんまり向いていないような気がするんですよね。
noteは読者層も含めてエッセイ向けかなー、と思って、試しに今回使ってみましたが、基本的に『空想東京百景』シリーズを読んでいないひとには読まれたくないので、課金の枷を付けて、ライトノベル的な短編小説を発表できるwebサービスがないものかなー、と。

商業小説をたくさんのひとに読まれたいとは思うけど、webでそういうのは期待していないというか、商業小説のついでに少数のひとが好きで読んでくれる回路があればいいというか。
最近はまあ、そんな感じのことをつらつらと考えております。